初修外国語

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初修外国語の世界にようこそ!

初修外国語を学ぶ意味

外国語といえば、俯きたくなります。英語が苦手だったからです。大学に入り、第二外国語(当時は初修外国語をこのように呼んでいました)が必修で、英語だけでもうんざりなのに、もうひとつ外国語をとらねばならないというのは、かなりのプレッシャーでした。ドイツ語を選択しましたが、はたして単位をとれるだろうかと不安でいっぱいでした。ところが、勉強し始めると意外とおもしろく、また担当の教員が厳しいことで有名だったこともあり、それなりに時間をかけたので、結果的には、6単位とればよいところを8単位も取ることになりました。成績も英語よりはるかに良かったと記憶しています。

その後、ぼくは、日本の古典文学の途に進むことになるので、ドイツ語と直接関わることはなくなりましたが、それでも大学院のころに授業で、副詞の「とても」の用例を集めているときに、近代文学の例で「とてシャン」というのが出てきて「なるほど」と思ったものです(なぜ「なるほど」なのかは調べてみてください)。

いま、世間では、直接に役に立つことが、多く求められています。大学も例外ではありません。すぐに役に立つかどうかばかりが問題になります。みなさんも、そういう基準で大学での学びを捉えてはいないでしょうか。そう考えるならば、「初修外国語を学ぶこと」は、自分とは遠い遠いところにあることで、なかなか積極的になれないかもしれません。

けれども、役に立たないことは無駄なことなのでしょうか。すぐには役に立たなくても、これからの人生のなかで、役に立つときが出てくるかもしれませんし(もちろん出てこないかもしれませんが)、むしろすぐに役に立つことほど、すぐに役に立たなくなることは、私どもは、経験的に知っているはずです。

ぼくが「とてシャン」の用例を見つけたのは、役に立つというほど大げさなことではありませんが、こういう言い方が当時の学生の間で流行っていたことを知ったことは、日本文学を学ぶうえで、それなりに意味のあることでした。大学での学びとは、そういうものなのだろうと思います。

直接には役に立たなくても、英語以外の言語を学び、今までにはなかった知識の抽き出しを持つこと、またひとつの外国語だけではなく、学びの視点を複数持つことは、これからの専門的な学びの基盤を支えるうえでも、有効なはずです。

エリオットの研究で著名な、英文学者の深瀬基寛というひとは、友人が文学部に行くから、文学部に行き、友人が英文学をやるというから英文学を専攻して、結局、大学者になったという話を聞いたことがあります。動機なんて不純でよいのです。不純な動機で初修外国語を履修してみてください。新しい世界が拡がるかもしれません。いま初修外国語を教えておられる先生方も、そうかもしれません。きっと不純な動機だったはずです。大学で初めて出会った言語・文学に、なぜか興味を持ったことが、結果的にいまの人生を歩ませているのだと思います。

みなさんにおいても、また、しかりです。大阪府立大学は、基本的に理系が中心の大学ですが、たまたま履修した初修外国語に、惹かれるものがあるかもしれません。それなら、その外国語を究めてみるのも、大学の学びとしては大事なことです。

自分には直接役に立たないもの、専門を学ぶうえで必要のないもの、そう考えている人は、その考えの軸を少しずらしてみてはいかがでしょう。

高等教育推進機構 機構長 西田正宏